誰も考えなかった,すんばらしい
納得してもらいました元に戻る

世界の謎,世紀の奇説
大胆な仮説と科学的分析で人類未踏の領域に突入した
新理論
遂に解けるか,人類永遠のパズル,誰も指摘しなかった
弥生人の侵略による日本征服の詳細


『弥生人はどうして日本にきて,日本を侵略していったか?』

<縄文人の考察>
@ 縄文人と弥生人とは,出土する骨格が全く違っていて,異なる人種と考えられる

A 縄文人の作った土器が,南米エクアドルや南太平洋のバヌアツでも見つかっている。縄文人は確実に5500年前に1.5万キロの海を渡って移住していたのである。この移住は,九州の霧島火山帯の大噴火で気候が激変し,食料に貧した縄文人が新天地を目指した結果であった

B 縄文人は末期に100万人,弥生人は末期に200万人がいたと考えられる(奈良時代は700万人,遺跡の分布状態からこのくらいの縄文人がいた,一つの種が生き延びるには30万体以上必要,以上からの私の類推である)

→1万年にわたって住む多くの縄文人が,日本にはいた

<縄文文化に関する考察>
@ 縄文土器では,国宝に指定された火焔土器のように,見事な装飾の芸術的作品が作られた

A 一方,弥生土器は装飾をほとんどなく,実用本位のものであった

B 弥生・古墳時代の絵画は,稚拙極まるものであった(古墳や土器や銅鐸に残る線刻絵画は,まるで子供の絵である)

→縄文文化は,なぜ弥生人には伝承されなかったのか

<人類学的考察>
@ 縄文人のDNAは,現在のアイヌ人のそれと完全に一致した。アイヌ人とは,先住縄文人が追い詰められて残った人々であった(縄文人のDNAは、ロシアバイカル湖畔に今も住むブリアート人と同じであった。縄文人とはブリアート人がマンモスを追って氷結した海を渡って日本列島に移住した人々であった)

A この事実から,平安時代までいたとされる熊襲・蝦夷・粛慎と呼ばれた人達も,先住縄文人の末裔と考えてよい

→弥生人が,日本を侵略した可能性は高い

<秦の考察>
@ 日本の弥生時代の始めは,中国では春秋戦国時代後期にあたる。春秋戦国時代は,紀元前770年から秦が統一する前221年まで続いた。

A 合従連衡で秦に対抗していた趙の捕虜40万人を,一夜にして坑埋めで虐殺した“長平の戦い”があったのは,前262年である。

B 秦の人口は2000万人といわれる。これから考えると紀元前3世紀の中国全土の人口は,4000万人程度と思われる。

C 雑穀の農耕が始まったのは前5000年の仰韶(ぎょうしょう)文化からで,秦時代には米作が広く行なわれていた

D 秦時代には,三星堆や殷にみられる青銅器からさらに進んで鉄器時代となっていた。また組織化された強大な軍隊をもっていた。

→秦は偉大な文明を築いていた。また秦の統一と弥生人出現とは奇妙に一致する

<渡海に関する考察>
@ 一衣帯水の対馬海峡はわずか50Km,古代人の航海術でも20時間もあれば渡海できたと考えられる。簡単な船でも多くの人が,日本に渡って来れた(これからすると、遣隋使や遣唐使がなぜあれほど遭難したか理解できないが)

→中国から簡単に渡海できた

<侵略についての考察>
@ 古墳時代の騎馬民族渡来説がある程度事実とすれば,古くから継続的に中国からの侵入があったと考えるのは自然である

A 人が大量に祖国を捨てるには,大きな動機が必要である。それは,気候変化・飢饉・疫病・戦乱・天災・資源枯渇などである。春秋戦国時代の動乱は,その原因と充分になりえた

B 侵略の形はどのようであったのか。春秋戦国時代で整備された圧倒的な武器と軍隊組織をもってすれば,狩猟中心で小集団で点在する縄文人などはひとたまりもなかったであろう

C 亡命弥生人はどこにやってきたのであろうか。陸伝いに朝鮮半島まで逃れた人々は,一衣帯水の対馬海峡を渡海したが,もちろん明確な行き先を考えていたわけではないであろう。しかし秦の始皇帝の命で東海の三神山に不死の仙薬を求めた徐福のように,漠然と東海に陸地があったと考えていたと思われる。また朝鮮半島からも遠望できたので,海流に乗るとどこか陸地に到達できると考えていたのであろう

D 九州北部や山陰西部に上陸した亡命弥生人は,米作が可能な中部地方まで700Kmを数十年で,征服した地に田畑を開墾しながら拡がっていったのであろう

E また,山中を住居とする縄文人と,米作のため平地に住まざるをえない弥生人とは,ある程度住み分けられていた思われる。混血した人骨も発見されなく、縄文人と弥生人が戦った遺跡も、鳥取県青谷上寺地(あおや かみじち)以外に発見されていない。先住の縄文人と渡来した弥生人は、互いに干渉することなく棲み分けていた。しかし米作で多くの人口を養えるようになった弥生人が,その後急速に人口を増やしていった

F 弥生時代600年間で弥生時代最後の人口200万人になるには,亡命弥生人はどのくらいいればよいであろう。600年を30代として2組の夫婦が4人ずつの子供を生むとすれば,理論上は600年で数億人となる。しかし実際はそれほど爆発的に人口が増えた例はない

G 食料による人口抑制がなくなった明治以降で考えると,100年でおよそ3倍である。したがってこれから考えると,600年ではおよそ1000倍と考える。したがって,2000人程度の亡命があればよいことになる

→侵略は,少人数で可能であった

<侵略者の文化の伝承>
@ 侵略者は,どれだけのものをもって来れるのか。遺跡などで確認できる弥生人が伝えた大陸文化は,稲作・米作り道具・土器程度である。中国で既に普及していた文字・絵画・武器・衣装・技術・法律・文字・貨幣・宗教・政府組織などは伝わらなかったのか。

A 特に亡命であれば,重要な貨幣などがなぜ伝わらなかったのであろうか(往時のベトナム難民は,小さな舟に金品だけをもって乗り込み,ボートピープルとなった)

→これは,難問である。あるいは伝わった文化も,必要性がないままに数十年たつうちに打ち捨てられたのであろうか

<私の考える弥生人の侵略>
@ 秦との戦いに敗れた斉または楚の人々は,あるいはボートピープルとなり東シナ海の荒海に乗り出し,あるいは朝鮮半島まで逃散したのち,遥かに霞む九州に向けて船出した

A それは紀元前3世紀初頭であり,その数は合計すると1万人を超えていた

B 海の藻屑と消えた一部の人々以外は,多くが渡海に成功し,九州北部や山陰西部に到着した

C その波は1度では終わらず,十年間で数度に渡った

D 九州に上陸した“弥生人”は,先住縄文人が住む山間部をさけ,稲作に向く低地に定住を始めた

E 組織化され優れた武具と文化をもつ弥生人は,稲作による豊富な食料をもとにまたたくまに人口を増やしていった。数万人の弥生人は,稲作が中部地方にまで伝わった紀元前1世紀までには,100万人にまで増えていた

F 縄文人との領土争いは,少しは起きたであろう。しかし縄文人が全国に広く薄く広がっていたこと,また狩猟のための小型の弓矢だけを武器としていたため,衆寡敵せず,弥生人に追われる形となって紀元前1世紀末には,東北地方と南九州にまで追い詰められていた

G 部分的には激しい戦闘もあった。まだ発見されていないが,将来縄文人と弥生人の“関ケ原の戦い”のあとが発見されるであろう(ちょうど倭国大乱のときの高地性遺跡のように。

H 中国から伝わった優れた文化も,日本ではその必要性がないままに,代を重ねるうちに伝承されずすたれていった。ちょうど安土桃山時代に伝わったキリスト教が伝承されなかったように。また言語も,縄文人の言葉を取り入れウラルアルタイ語の文法を残しながら,話し言葉である独自の「日本語」が作られていった

I 縄文人と弥生人との混血は,その骨が出土されないことから,あまり進まなかった。亡命者は,平和的占領より戦闘的侵略を選んだのであろう

J こうして,日本をほぼ征服した弥生人は,その後も人口を増やし,一次倭国大乱の時代を乗りこえ,卑弥呼が登場する3世紀中葉には200万人となり,二次倭国大乱の後,再び古墳時代騎馬民族の侵略を受けるのである。


<以下は事実か疑わしい雑談>
@飲み屋で
「あなた,目鼻立ちがはっきりしているね,髪の毛もふさふさしているし,どちらかといえば毛深いよね」
『そう,ちょっと毛深いかな』

「それなら腕めくってごらん。手のひらを上に向けて肘のあたりにスジが出ているはずだが」
『えーなんで分かるの。私も前々からこのスジがあってなぜか謎だったの,なんで,何で…………』

そこで上の薀蓄を披露した後
「私たちの祖先には縄文人と弥生人がいて,縄文人の子孫はソース顔で掘りが深く毛が濃い,弥生人はしょうゆ顔………,そして縄文人であることの証明のために腕にスジが入っている」
『へー,そうなの』

ソース顔の人で腕にスジのある確率は,85%である。

<その後分かったこと>
@弥生人が亡命時に持ってきたのは「水田稲作」、すなわち水田を開墾し苗代から稲を育て秋に刈り取る、その手順とそれに必要な水路や鍬や田下駄や包丁や脱穀の方法など(石包丁の形状からして稲は今のように刈り取るのではなく穂先を摘んだのかもしれない)であった

Aその稲作システムは、縄文人が畑で陸稲を栽培していたときに行っていた方法とは全く違ったものである。その栽培方の違いや稲の種類の相違から収穫量は革命的に大きくなり、弥生人は水田稲作だけで食料が確保できるようになたはずであり、そのことがその後の人口爆発につながった

Bしかし、多くの歴史学者は「水田耕作をしていたのは、先住民である縄文人である」と言っている。これはおかしい。縄文人と弥生人は、上述したように狩猟に適した高地と水田稲作に合った低地とにすみ分けていたし両者の混血を窺わせる骨も発見されていないことなどから、縄文人に水田稲作が伝わったとは考えられない。

Cしたがって「水田耕作したのは弥生人」であり、そのため人口が急激に増え、縄文人を圧迫し、九州と東北に追いやっていった。その圧迫は平安時代の坂上田村麻呂の時代まで続き、さらに残された人たちはアイヌ民族となって現在に至る。